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現在66歳の男性は作曲家や演奏家としてキャリアを経たのち、音楽教師として生活していました。
しかし2021年にオートバイの衝突で、車体から9メートルも投げ飛ばされる大事故に遭います。
何とか一命は取り止めたものの、救急搬送された病院で脳の表面に血溜まりができていることが分かりました。
専門的には「硬膜下血腫」と呼ばれる状態です。
ただ手術が必要なほどの血溜まりではないと判断されたため、搬送から3日後に退院しています。
それからしばらくして、男性の身にある変化が起こりました。
いつものように音楽を聴いていると「音符が目に見えるようになった」のです。
生演奏でも録音された音源でも、まるで音符が五線譜の上に乗っていくように感じられたといいます。
それに加えて、音を聴くだけで正しい音階が分かる、いわゆる「絶対音感」も発現しました。
どちらも事故前には持っていなかった能力だといいます。
これについて医師たちは「外傷性脳損傷(traumatic brain injury:TBI)によって、別々の感覚が相互に混ざり合う”共感覚(シネステジア)”を発症した可能性が高い」と指摘します。
共感覚は珍しい神経症状で、約2000人に1人の割合で発生するという。
共感覚を持つ人の多くは生まれつきですが、脳損傷後に共感覚を獲得する例も多数あります。
実際、共感覚かどうかを評価する「シネステジア・バッテリー(Synesthesia Battery)」というオンラインテストを男性に受けてもらったところ、確かに「音によって視覚的イメージが誘発されている」ことが確認されました。
共感覚が生じる神経学的なメカニズムはまだ解明されていませんが、「外傷による脳内の新しい結合が関係している」と医師たちは考えています。
その説明によると、普通の脳では、ある刺激(たとえば音)が無関係な感覚(視覚や嗅覚)を誘発しないようになっていますが、ケガにより脳内の神経が変化することで、異なる感覚同士をつなげる通路ができてしまうというのです。
ただし、どういう感覚の組み合わせが生じるかは分かりません。
彼の場合は聴覚と視覚が結びついたようですが、これがどういった脳内の作用で起きているかはまだ正確に説明はできないようです。
そして今回、男性はバイク事故で共感覚が目覚めただけでなく、他にも驚くべき変化が現れました。
男性は共感覚を発現すると共に、作曲への創作意欲が異様に高まったといいます。
特に深夜の午前0時から4時の間に創造性が爆発し、寝る間も惜しんで作曲に没頭するようになったそうです。
男性は医師に「私は常に曲を書くようになりました。なぜか書かずにはいられなくなったのです」と話しています。
この話を聞いて、研究主任で神経学者のレアラニ・メイ・アコスタ(Lealani Mae Acosta)氏は驚きを隠せませんでした。
というのも、脳損傷で「共感覚」か「創作意欲の高まり」のいずれかが起こるケースは知っていたものの、2つの能力が同時に発現する例は聞いたことがなかったからです。
ただ担当医は事故後の症状として両者が結びついた報告は聞いたことがなかったため驚いたようですが、共感覚の持ち主がしばしば芸術性に優れている点についてはさまざまな報告があります。
たとえば共感覚を持つ芸術家としては、小説『ロリータ』で世界的に有名なロシアの作家、ウラジーミル・ナボコフが有名です。
ナボコフは文字に色がついて見えたそうで、生前、「英語のaは長い風雨に耐えた森の持つ黒々とした色で、フランス語のaはつややかな黒檀の色である」と発言しています。
他にも、詩集『悪の華』を書いた詩人ボードレール、『叫び』でおなじみの画家ムンク、ラ・カンパネラやハンガリー狂詩曲など数々の名曲を残した音楽家リストなど、偉大な芸術家の中には共感覚を持っていた人が少なくありません。
また日本では、詩人で童話作家の宮沢賢治が「音楽を聴くとその情景が見えた」そうで、共感覚の持ち主だったのではないかと言われています。
共感覚がどのように創造性と結びつくかについても、まだ詳しい理論はありませんが、複数の感覚が同時に刺激されることで、創作意欲が刺激されたり、アイデアが次々と浮かび、創作したいという欲求が高まることはありうるのかもしれません。
しかし、医師が何より驚いていた点は、両者の結びつきというより、彼が事故によって脳にポジティブな影響のみを発現させていたという点だったのでしょう。
アコスタ氏は「外傷性脳損傷(TBI)は、患者の認知機能を損なうネガティブな結果を伴うことが大半です。しかし今回は共感覚と創作意欲の強化という2つのポジティブな結果を生み出しており、極めて稀なケースです」と述べています。
ところが、この魔法はいつまでも続くものではありませんでした。
能力の開花は事故から約4カ月つづいたものの、TBIから回復するにつれて徐々に薄れていったのです。
今では音が目に見えることも、寝ずに作曲することもないといいます。
男性は4カ月の間に数多くの曲を残しましたが、回復後は夜中に作曲をしたこと自体もよく覚えていませんでした。
後で奥さんと一緒にそれらの曲を聴いたとき「興味深いが奇妙な感じだった」と評しています。
一方でアコスタ氏らは「男性の症例は本当に稀なケースであり、脳の損傷は基本的には患者に悪影響しか与えない」と注意を促しました。
誰もそんなことはしないと思いますが、超能力を手に入れるためにわざと頭をぶつけるようなことは止めておきましょう。
参考文献
Musician’s head injury triggered rare synesthesia, causing him to ‘see’music https://www.livescience.com/health/neuroscience/musicians-head-injury-triggered-rare-synesthesia-causing-him-to-see-music元論文
A case report of acquired synesthesia and heightened creativity in a musician after traumatic brain injury https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/13554794.2023.2208271?journalCode=nncs20