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「紅花」はベニバナのことではなかった⁉七十二候「紅花栄」


5月26日より、小満の次候「紅花栄(こうかさかう/べにばなさかう)となります。「紅花」が栄える=花盛りとなる、という意味だと即理解できますが、この紅花とは、赤い染料やサフラワーオイルを採ることで有名な栽培植物ベニバナのことである、と一般的には言われています。けれども、ベニバナの花期は7月から8月にかけてであり、明らかに5月末のこの時期とはずれています。そのずれは1ヶ月以上で、到底紅花がベニバナであるとは思われません。だとしたら、何の花なのでしょうか。


貞享暦編纂者・渋川春海はいいかげんなことは言わない

「紅花栄」が七十二候に登場したのは日本初のオリジナル暦である貞享暦からで、大衍・宣命暦から引き継がれた七十二候も、本朝七十二候として刷新されました。小満次候は「靡草死(びそうかる)」から「紅花栄」に変更。そして以降の何度かの改暦でも変わらないまま引き継がれています。読みについては貞享暦・宝暦暦では紅花を「こうか」と読ませ、明治の略本暦で「べにばな」となっていますが、本来江戸時代の七十二候には、ふりがなは振られていないので、これらの読みは後の時代の人の解釈になります。

「七十二候鳥獣虫魚草木略解」(1821年・春木煥光)には、「紅花ハ紅藍花ナリ 和名鈔ニクレノアヰト云 今ハヘニハナト云」と書かれており、現在の紅花=ベニバナの根拠となっています。しかし、春木煥光はベニバナの開花期について一切触れておらず、知らなかったかあえて無視したものと思われます。

ベニバナには、「半夏一つ咲き」ということわざがあります。半夏生(夏至末候・7月2日ごろから7月6日ごろ)の頃にベニバナの花が一つ、ぽつんと咲き始める、と言った意味です。「栄える」と言えるまでの花盛りにはその後半月ほど要しますから、「紅花栄」の時期とはほぼ1ヵ月半の開きがあるわけです。見過していいズレではありません。「紅花栄」を小満次候に設定したのは、編纂を主導した渋川春海。几帳面で目配りの利く合理主義者で、宣命暦七十二候に見られる空想的な候を廃し、動植物についてもそのふるまいと時期をぴたりと合わせて候に当てはめ設置しました。そんな春海が、これほどルーズな仕事をするとは思えません。


菅原道真の子孫・長南氏により花開いたベニバナ文化

ベニバナ(紅花 Carthamus tinctorius)は、キク科ベニバナ属の一年草。原産地はエジプトまたは地中海沿岸の乾燥地帯で、日本には推古天皇の時代(AD593~ 628年)の頃に伝来したといわれています。そのベニバナが日本で本格的に栽培されるようになるのは、あの平安時代の有名人・菅原道真が関係していました。平安期、上総(千葉県中南部地方)長生地方に下った道真の息子の善智麿(ぜんちまろ)がこの地に居つき「長南氏」を名乗ります、以降長南氏は代々500年間ベニバナ栽培をおこなってきたのでした。しかし、15世紀後半、室町幕府の古河公方・足利成が上総に勢力伸張。長南氏は戦いに敗れて出羽(山形県)の最上地方に落ちのびます。そしてこの地で再び故郷を偲びベニバナ栽培を開始したのです。冷涼な当地の気候風土に適合して、江戸時代初期には「最上紅花」は一大産地として知られるようになりました。最上紅花は紅餅(はなもち)に加工され京都に運ばれ、女たちの口紅や京友禅などに使用されてその美しさと品質を全国に知られていきました。現在でも、ベニバナ=山形県、といわれるのは、このとき以来の伝統です。

では、もしかしたら貞享暦の作られたころの江戸時代には、ベニバナはもっと早い時期、5月末に咲いていたのでしょうか?

松尾芭蕉は「奥の細道」での東北地方遍歴の際最上方に立ち寄り、ベニバナを句題に発句しています。

眉はきをおもかげにして紅粉の花

(もがみにて紅粉の花の咲きわたるをみて 芭蕉)

この句が読まれたのは元禄2(1689)年の旧暦5月27~28日。この年のこの日を現在の暦に換算すると、7月13~14日にあたります。つまり、貞享暦が発布された貞享2(1685)年のわずか4年後の江戸前期も現代と変わらず、7月半ば以降にベニバナが花の盛りを迎えていたことがわかります。

そして、最上紅粉の最大の消費地である京都で生まれ育った渋川春海が、このベニバナの花の時期を知らない、と言うことはないでしょう。

よって「紅花栄」の紅花は、ベニバナではありえないのです。


青葉の渓谷の流れに紅色を映し出す映山紅。それこそが紅花!

「紅花」と言う言葉には、ベニバナという特定種を指す場合と、赤い花全般をさす場合、ふたつの意味があります。つまり紅花栄は、ベニバナでない別の「紅い花が花盛りを迎える」、ということになります。では、春海が想定した「紅い花」は、何の花だったのでしょうか。

5月末のこの時期に盛りを迎える赤い花。ぴたりとあてはまる花があります。サツキツツジ(皐月躑躅 Rhododendron indicum)です。名前のとおりツツジの一種ですが、江戸時代には特にサツキツツジの盆栽人気が高まり、他のツツジと区別して「サツキ」と呼ぶのが一般的。一般的なツツジが4月に咲くのに対して、サツキの花期は5月後半から6月にかけて。まさに時期は一致します。何百もの園芸品種のあるサツキですが、その原種は映山紅(えいさんこう)の別名を持ち、増水すれば水をかぶるような渓谷の懸崖地などを好み、鮮やかな紅色の花を枝いっぱいにつけます。

サツキを含むツツジの仲間は、日本には約50種ほどもの野生原種があり、日本列島はツツジ王国でもあります。ツツジの仲間を庭に植えることは鎌倉時代~室町時代には一般化していたようで、たとえば群馬県館林市のつつじ公園として知られるつつじが岡公園は、南北朝時代の建武元(1334)年、新田義貞によって造園された新田郡武蔵島村(現在の太田市尾島町)の庭園のつつじの古株数百株を移植して大庭園とした、という歴史があります。

江戸期には園芸ブームが起こり、元禄5年には江戸染井村(東京都豊島区)の植木職人・伊藤伊兵衛がツツジ・サツキの園芸品種大全「錦繍枕」を出版、そこにはサツキの園芸品種が164種掲載され、主に薩摩(鹿児島)や京都などで栽培作出されていた品種が、江戸に一気に流入していたことをうかがわせます。

サツキの原種が西南日本中心に自生しており、相模(神奈川県西部・中部)地方がほぼ東限であることから、その栽培の中心は西日本や九州でした。京都人である渋川春海にとって、サツキはこの時期に咲く身近な紅色の花だった、というわけです。

「紅花」という言葉には、夏を迎える季節の象徴的な意味合いもこめられています。五行思想では春夏秋冬は東西南北の方角にあてはめられ、それぞれの方角には守護神獣があります。東で春をあらわす青龍、南で夏をあらわす朱雀、西で秋をあらわす白虎、北で冬をあらわす玄武。夏のイメージカラーは赤。このため「朱夏」ともいわれます。そのはじまりを告げる花として、燃え上がるようなサツキの鮮烈な赤はふさわしいものではないでしょうか。



参照

日本「古街道」探訪 東北から九州まで、歴史ロマン23選  (泉秀樹 PHP文庫)

長南氏歴史物語

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