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「この鳥町食道街で再建」焼きうどん発祥の店の決意 北九州大火


 北九州市小倉北区魚町の飲食店街「鳥町食道街」一帯で発生した大規模火災から10日で1週間がたつ。食道街の一角で終戦直後から市民に親しまれてきた、焼きうどん発祥の店とされる「だるま堂」も被災したが、店内に飾っていた先代の頃の看板やヘラは奇跡的に無事だった。3代目店主の竹中康二さん(55)は「地元の味をつないでいくため、この街、この場所で再建したい」と前を向く。

店内水浸し 営業継続は困難

 「鳥町食道街が燃えている」。3日午後3時過ぎ、店にいた従業員からの連絡を受け、竹中さんは慌てて現場に駆け付けた。店には近づけず、規制線の先で炎と煙が立ち上っていた。「火が出たと聞いた瞬間、うちの店舗も駄目だろうと諦めた」。消防による懸命の消火活動で、火は店のすぐ手前で消し止められた。だが、店内は水浸しの状態で、営業継続は困難になった。

 「だるま堂」は初代店主の弁野(べんの)勇二郎さん(故人)が終戦直後の1945年に、闇市だったこの地で開業した。物資不足で中華麺が手に入らず、当時入手しやすかった、うどんの乾麺(干しうどん)で代用したのが焼きうどんの起源とされる。

 その後、弁野さんの親戚で2代目の坂田チヨノさんが約60年にわたって店を切り盛りし、小倉を代表する「B級グルメ」に育て上げた。坂田さんは2019年に82歳で亡くなり、店は一時閉店。存続の危機に立ったが、竹中さんが所長を務める市民団体「小倉焼うどん研究所」が「北九州の食文化を守りたい」と店を引き継ぎ、地元の経済団体の協力も得て20年7月に営業を再開した。竹中さんが店主となり、研究所のメンバーがそれぞれ仕事をしながら店の運営を担ってきた。

 新型コロナウイルス禍を乗り越え、ようやく営業が軌道に乗り始めたばかりでの被災。竹中さんは「店を引き継ぐ時、『100年継続させる』と誓った。理由はどうであれ、続けられなくなったことは、先代にも、店を愛してくれた人にも申し訳ない」と肩を落とす。

無事だった看板と先代のヘラ

 ただ、一筋の明かりも見えた。警察と消防の実況見分に同行して店内を確認したところ、先代が使っていた「だるま堂」の看板と、ヘラが入った額縁は無事だった。看板は店外に出せなかったが、額縁は店長の塚腰英稔(ひでとし)さん(53)が大切に持ち出した。塚腰さんは「先代が小さな体で焼いていた、店の重みが詰まったヘラ。自分もこれを背にうどんを焼いていた」と額縁を見つめる。

 竹中さんは「看板もヘラも先代から大事に受け継いできた、鳥町食道街の発祥にまつわるもの。復興の象徴にしたい」と話す。一方で「うちの店だけすぐに復活というのは考えづらい」と言い、街全体での復興を思い描く。

 鳥町食道街は北九州で戦後初めてつくられた飲食店街とされる。竹中さんは「何もない時代の闇市から発展したのが食道街。また一からスタートすると思えば頑張れる。この場所、この味にこだわりたい。『閉店』とは絶対に言わない」と語気を強めた。

旦過市場火災以来、相次ぐ大火

 北九州市小倉北区魚町の飲食店街「鳥町食道街」で3日に発生した火災では食道街の一帯が焼け、隣接する魚町銀天街の一部にも延焼した。市消防局によると、延べ約2900平方メートル、36店舗(いずれも速報値)が焼損。捜査関係者や近隣店舗の関係者によると、火元とみられる飲食店の関係者は「油の入った鍋を火にかけたまま店外に出ていた」と説明しており、福岡県警と消防が出火の経緯などを調べている。

 鳥町食道街の南約300メートルにある旦過(たんが)市場一帯では2022年4月と8月、合わせて約5000平方メートル以上が焼損するなど、同市では木造建物が密集する地域での大規模火災が相次いでいる。

 市は旦過での火災後、被災店舗が近隣の空き店舗などに移転して営業を再開する場合に最大120万円を助成する補助金制度を創設。今回の火災にも適用して被災者支援を進めるほか、火災で発生した大量のがれき撤去に向けた意見集約も急いでいる。【山下智恵】

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