グラウンドで躍動する選手たちを大きなサウンドが後押しする。阪神甲子園球場（兵庫県西宮市）で開催中の第105回全国高校野球選手権記念大会は、4年ぶりに人数制限なく吹奏楽の応援ができるようになった。常連校などの大迫力な演奏を楽しみにしているファンも多い。その裏側には日程調整など「吹奏楽部はつらいよ」と言いたくなるような現実も隠れている。
7月下旬。甲子園球場からほど近い同県尼崎市の市立尼崎高校では、そろいの白いジャケット姿の吹奏楽部員が真剣な表情で合奏に臨んでいた。この日は「全日本吹奏楽コンクール」の東阪神地区大会の前日。全国大会への最初のステップとなる予選に向け、課題曲のマーチと、オーケストラ曲をアレンジした自由曲の計2曲が制限時間の12分以内に収まるかなどを最終確認した。
「うちの県大会の日程と重ならないことだけ祈っている」。合奏を終え、タクトを置いた総監督の羽地靖隆さん（75）がつぶやいた。
懸念は地区大会を勝ち抜いた先にあった。例年コンクールは7月下旬ごろから全国各地で予選が本格化する。市立尼崎高が出場する高校の大編成部門は8月10日に県大会があり、甲子園の1回戦の時期と重なるのだ。市立尼崎高の野球部は夏の兵庫大会の3回戦で敗れたが、例年、吹奏楽部員は甲子園のアルプス席にも向かう。遠く南からやってくる沖縄代表の応援を任されているためだ。
40年以上前、吹奏楽部の甲子園入りが難しい沖縄代表の応援を検討してほしいと、沖縄・伊良部島出身で当時市内の中学で教えていた羽地さんに知人から打診があった。羽地さんが市立尼崎高の教員に転じてからも縁が続き「ハイサイおじさん」や沖縄県民が愛するビールのCMソングなど、球児たちが地元を感じられるエールを届けてきた。テレビなどで演奏を目にし「甲子園で応援がしたい」と入部する生徒も毎年いるという。
部長でトロンボーン担当の3年、前田栞里さんもそんな一人。「審査員もお客さんも一音一音に集中しているコンクールでは、練習から細かい調整が必要で緊張する。甲子園は開放的で、思う存分のびのび吹ける。どちらも魅力的ですよ」と笑う。今春のセンバツでも応援を経験。特に上級生は約70曲のレパートリーも頭に入っており、練習に大きく苦心するわけではないという。
部員4割が来られない
ただコンクールに出場する選抜メンバー55人は日程が重なればアルプス席に立つことはできない。124人いる部員の4割以上に当たるメンバーが来られないとなると、音量も下がってしまう。
市立尼崎高野球部が甲子園に出場し、沖縄代表と2チーム分の応援に駆けつける必要に迫られたり、コンクールを午前中に終えて記念写真も撮らずに甲子園に向かって試合開始5分前に間に合わせたりなどピンチもあったが、この40年余りで日程が重なったことはなかった。幸い2023年も沖縄代表・沖縄尚学の初戦は11日に決まり、コンクールメンバーも含めた全員がアルプス席に並ぶことができた。
暑さで楽器管理に注意
それでも吹奏楽部員の心配はつきない。直射日光が降り注ぐアルプスでは生徒自身の熱中症対策の他、楽器のメンテナンスにも注意が欠かせないのだ。
クラリネット担当の3年、薬師寺乃亜さんは野球応援の際、普段使っている木製の楽器ではなく、樹脂製のものを使うという。木製のものは急激な温度変化により、管が割れるリスクがあるからだ。雨が降ればビニール袋で作ったカバーをかけて演奏するなど大切な相棒を守るために腐心する。「屋外での管楽器の演奏はなかなか難しい。手汗もかくし、砂ぼこりも気になるので、応援が終わると、綿棒などを使っていつもより丁寧に掃除する」と話す。
総合楽器メーカー「ヤマハ」（浜松市）によると、野球応援などの屋外演奏は、強い日差しに伴う管の温度の上昇でパーツの間に差しているオイルが飛び、楽器が動かしづらくなるなど、さまざまな不安要因をはらんでいる。大型の金管楽器、スーザフォンなどにファウルボールが当たり、大きくへこんだ状態で修理依頼が来ることもあった。
楽器の状態を保つために、演奏直前まで日陰にいるなど直射日光の当たる時間を短縮する▽木管楽器は樹脂製のものを使用する▽演奏後はいつも以上に丁寧に掃除をする――などの対応策があるという。同社で管楽器などの製品サポートを担当し、自らはトランペットでの応援経験がある原田幸一郎さん（43）は「特にビッグイニングでは応援に力が入るが、演奏が続いてフラフラになることもあると思う。楽器も自分自身もいたわりながら楽しんでほしい」と話す。
沖縄尚学は19日、慶応（神奈川）と準々決勝を戦った。一塁側・沖縄尚学のアルプス席には、この日も市立尼崎高吹奏楽部員の姿があった。沖縄尚学は中盤に逆転を許し慶応を懸命に追った。
5点差で迎えた九回裏。吹奏楽部員は「ハイサイおじさん」を選び、全力で奏でた。陽気なリズムにスタンドは一気に沸いた。ラストバッターは、沖縄尚学をベスト8まで引っ張った大会屈指の右腕、東恩納蒼投手（3年）だった。中盤、打ち崩され、左翼手に回っていた。初球を打ってセンターフライ。沖縄尚学野球部と市立尼崎高吹奏楽部の夏が終わった。
羽地さんは「いつも通り、しっかり演奏してチームの後押しをした。試合とコンクールが重ならなくても、地域のお祭りでの依頼演奏など日程調整はいつも大変。ただ甲子園で部員は何もかも忘れて楽しんで応援している。準決勝にも駆けつけるつもりだったので残念。明日からは27日の関西大会に向けてまた練習に励みます」と話した。【小坂春乃、林大樹】
