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のっぽさんが語った怒りとは 亡くなる50日前のラストインタビュー


 NHKの工作番組「できるかな」(1970~90年)などで活躍した高見のっぽさんの訃報が届いてから、10日でひと月を迎えた。88歳。亡くなったのは昨年の9月だったと聞き、さらに驚いた。というのは、のっぽさんは亡くなるおよそ50日前、毎日新聞東京本社(東京都千代田区)に足を運び、私がお願いした取材を受けてくれていたからだ。聞けばこれが、のっぽさんのラストインタビューになった。のっぽさんの残したメッセージを紹介したい。【稲垣衆史】

 去年の7月21日は30度を超える暑さだった。そんな日のインタビューなのに、のっぽさんはニコニコしていた。チューリップハット、180センチを超えるすらりとした長身はテレビで見たままだったが、少し痩せたような気がした。「実はおちびさんと遊んでいて足を悪くしてね。でも、もう大丈夫」。数年前に骨折して入院し、体重も10キロほど減ったという。でも、カメラを向けられると、得意のタップダンス、さまざまなポーズを決める。これぞ、のっぽさんだ!

 取材を申し込んだのは、「戦争の記憶」を聞きたかったから。2015年に出版された「私の『戦後70年談話』」(岩波書店編集部)で、本格的に戦争体験を語っていた。「語り部」として、のっぽさんを取材したいと企画した。

 「一番大事なのは、子どもが『大人にだまされていた』と気づいたことですよ」。取材が始まって、まずこう口にした。

 小学校4年の時、家族で岐阜県に疎開。そこで約900人も死亡した7月の「岐阜空襲」に遭遇し、ほどなく終戦を迎えた。これを境に、軍国主義教育だった小学校の雰囲気が一変したという。「先生が『民主主義っていいもんだな』なんて言うんです。つい最近まで『死して護国の盾になれ』と教えていたのに、よく口にできるなって思うと、もうムカムカしてね」

 戦時を語るようになったのは、14年に安倍晋三首相(当時)が集団的自衛権の一部行使を閣議決定で容認したことが大きかったという。国民にウソをついて戦争に加担させた雰囲気に近づいていくような「きな臭さ」を感じ取ったからだった。「愛国心」を口にするようになった政治に対して、「愛する国のためにどうすればいいのかを勉強するなら分かる。でも国のために犠牲になることを教えるなんて、冗談じゃない」。

 取材中、時折「今日はしゃべりすぎだよなあ」と苦笑しながらも、2時間近く語ってくれた。この日のインタビューには後日談がある。紙面に掲載された8月中旬、わざわざ電話をかけてきてくれたのだ。「あなたは賢いねえ、頑張ってください」と、励ましの言葉をくださった。

 事務所代表の古家貴代美さんによると、亡くなった9月10日は澄み渡るような夜空で「中秋の名月」だった。「僕は、風のように逝くからさあ」と生前よく口にしていた通りだったという。本人の希望で死の公表は半年以上伏せられたが、「人は誰しも死ぬ。みんなを騒がせたくない」と語っていたそうだ。人知れず逝ったのは、のっぽさんの「優しさ」。そう理解すると、記者のショックは少し和らいだ。インタビューの言葉は、のっぽさんからの「遺言」と受け止め、胸に刻みたい。

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