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終戦1日前に…熊谷空襲の悲劇、見て感じて 高校生らが戦跡巡り


 日本の無条件降伏前日の1945年8月14日深夜から翌未明にかけ、米軍機による「最後の無差別爆撃」で焼き払われた埼玉県熊谷市。266人の命が燃えさかる炎の中で奪われた「熊谷空襲」の悲劇に触れようと、地元高校生らが28日、市中心部に残る戦争の爪痕を見て回った。高校生らは「見て感じたことを学校、家庭に持ち帰りたい」などと話し、熊谷空襲の伝承を誓った。【隈元浩彦】

「不条理で悲しくなる」

 市民団体「熊谷空襲を忘れない市民の会」の主催。空襲のあったその日に生を受けた、代表の米田主美(かずみ)さん(77)は空襲の記憶継承を願い、2015年に会を設立した。高校生を対象にした戦跡巡りは2回目で、今回は熊谷女子高日本史部の3人、熊谷農業高の1人、同会のメンバーら約20人が参加した。

 一行はまず熊谷市立図書館(同市桜木町)で、同館学芸員の大井教寛さん(49)から基本情報のレクチャーを受けた。大井さんは「米軍の爆撃機B29の搭乗員は機内で日本が降伏することを知ったが、帰投命令は出なかった」と知られざるエピソードに触れながら、グアム島から飛来したB29約90機が投下した約8000発の焼夷(しょうい)弾で市街地の約3分の2が焦土と化した、と説明した。

 最初に向かった先は熊谷女子高。前年に続いて参加した同高日本史部の石川蓮さん(2年)が案内に立った。空襲で校舎が全焼し、かろうじて残った旧正門と鈴懸(すずかけ)の木(プラタナス)が紹介された。現在は移築され北門として使われている旧正門のレンガの柱には猛火の跡がくっきりと残されている。石川さんは「熊谷空襲という言葉は知っていても、実際に遺構を見ると、理解の度合いは違う」と話した。

 その後、市役所隣りの中央公園内に残る戦災ケヤキ、市役所通りと国道17号と交差点にある老舗菓子店「中家堂」の敷地内で保存されている、空襲の激しい炎で黒ずんだ石灯籠(どうろう)などを見て回った。

 星渓園近くの石上寺(せきじょうじ)では岡安哲也住職(77)の心遣いで、秘仏「弘法大師像」が公開された。左の頰が焦げた像を前に、岡安住職は「空襲で寺は全焼。かろうじて救い出したご本尊の像は、このような姿になってしまった。『空襲の生き証人。修復をしてはならない』というのが先代住職からの伝言でした」と秘話を披露した。

 約4時間の戦跡巡り。熊谷農業高の清水悠世(ゆうせい)さん(3年)は「終戦のわずか1日前に、一般の人たちが戦禍に遭う。一人一人に人生があったのに、何と不条理かと悲しくなります。いま、同じことがウクライナで起きていると思うと、言葉もありません」と感想を述べた。

 米田さんは「体験者は高齢化し、空襲の記憶が年々風化しています。若い世代に、記憶の継承というバトンを託していければ」と話していた。

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