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サミット主会場は旧軍要衝の地 「まともじゃなかった」戦時下


 19日に開幕する主要7カ国首脳会議(G7サミット)の主会場となる広島市南部の宇品地区は、旧日本軍要衝の地だった。明治期以降は大陸へ軍隊を送り出す拠点港として発展し、原爆投下直後には多くの遺体や負傷者が運び込まれた。日本の戦時史と深く関わる地へ、かつて戦火を交えた各国の政治指導者が集まる巡り合わせに、元住民も感慨を深めている。

 「幼い頃は海辺で貝を取ったり、夏になれば釣りや海水浴をしたりして、遊び回ったよ」。宇品で生まれ育った青木賢(さかし)さん(88)は幼少期の思い出を語る。1935(昭和10)年、4人きょうだいの次男として生まれた。自宅の周りでは、路上で将棋を指したり、友達や住民と餅つきをしたりと、のどかな風景が広がっていたという。

 日清戦争(1894~95年)以降、宇品は、兵隊や軍需品を朝鮮半島や中国大陸へと送る「玄関口」として宇品港(現・広島港)が発展した。旧陸軍の船舶司令部が置かれ、近隣には軍服や軍靴を製造する「被服支廠(ししょう)」や、兵士の食料や軍馬の飼料を製造・貯蔵する「糧秣(りょうまつ)支廠」も建ち並んだ。青木さんの父も軍用船の機関士で、宇品港から神戸や山口へ船で出かけた。

 青木さんが国民学校の児童だった大戦末期には戦時色が強まっていた。自宅裏は出征前の兵隊が集まる広場だった。一家が営む商店にも兵隊が訪れ、菓子やせっけんなどを買い求めた。周辺に建てられた馬小屋には、何十頭もの軍馬がつながれた。青木さんは「遊び場だった海辺は立ち入りが禁止され、子どもながらに戦争の影を感じた」と振り返る。

「これは宇品じゃない」

 一家は45年春ごろ、母の実家がある上蒲刈(かみかまがり)島(現・広島県呉市)に疎開する。同年8月6日朝、約35キロ北西の広島市内の方角が「ピカッ」と光り、「ドーン」と雷が落ちたような腹に響く音がした。「広島に爆弾が落ちた。全滅らしい」。そう伝え聞き、宇品の自宅が気になって、2日後、兄と漁船で向かった。爆心地から南東へ約4キロ。民家の屋根や瓦が吹き飛ばされたり、建物自体が倒壊したりしていた。「違う。これは宇品じゃない」

 宇品では、自宅の近所の知り合いから、運び込まれたたくさんの遺体の衣服から名札をはぎ取るのを手伝うよう頼まれた。犠牲者の手がかりを残すためだったとみられる。ドラム缶の上で遺体が焼かれているのが目に入った。垂れた目玉、鼻や口がない顔、腕がちぎれた胴体……。「これが戦争なのか。まともじゃない」。ひたすら作業をするうち、いつの間にか何も感じなくなっていた。

 62年に結婚したのを機に宇品を離れ、現在は広島市安佐北区で暮らす。今でも、名札をはぐ時に触れた遺体の骨のごつごつとした感触や、遺体が焼かれた時の生臭さは忘れられない。

 それでも青木さんにとって、宇品は、懐かしい思い出が詰まった大切な古里に変わりはないという。「昔、遊んだ場所でサミットがあるなんて思いもしなかった。戦争が終わり、ホテルが建ち、そこへ各国首脳が集まるとは、時代も変わったなあと不思議な感じがする」と話す。今後に向け、「サミットを開いた後が大事。核廃絶につながって初めて、広島で開いた意味があったと言えるはずだ」と語った。【井手千夏】

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