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不安と恐怖「基地ある限り」=無表情の少女、今も脳裏に―小学校への米軍機墜落を目撃・沖縄復帰50年


 沖縄県旧石川市(現うるま市)で米軍統治下の1959年6月30日、市立宮森小学校に米軍の戦闘機が墜落し、児童12人を含む18人が亡くなった。現場に駆け付けた伊波則雄さん(84)=同県読谷村=は、全身を焼かれた無表情の少女が今も忘れられない。米軍絡みの事件事故はその後も日常的に起き、豊かさへの羨望(せんぼう)もあって、敵対心を抱いた。「基地がある限り、なくならない」。亡き少女への思いを胸に、沖縄からの基地撤退を訴え続ける。  教師だった伊波さんは、近くの教育事務所で「ブワァーン」と高く濁った爆音を聞いた。現場では黒煙が立ち上り、ガソリンと材木の燃える臭いに満ちていた。顔見知りの女性から、娘である当時小学2年の少女を預かった。全身が青白くただれ、衣服はほぼ残っていなかった。「私の子どもがまだ中に3人いる」と半狂乱で駆け出す母の傍ら、かすかな声で痛みを訴える少女の姿に「助からない」と直感した。その後、間もなく病院で亡くなった。  日常の中で、米軍には複雑な感情があった。貧しく暮らす住民は、米兵家族がフェンス際でバーベキューを楽しむ様子を見せつけられた。「自分たちの沖縄なのに自由に歩けない」と少年時代から反感を覚えた。だが周囲には生活のため基地で働く住民も多く、口に出すのがはばかられた。  63年前の墜落事故には「戦争を経験して、沖縄だけはまだこんな状況か」と腹が立った。一方で「『命どぅ宝』(命こそ宝)というのは口だけ」と諦めもあった。敗戦後に本土から切り離され、現状を変えられない政府への怒りも入り交じった。今も沖縄の空を飛び交う米軍機に「うてぃれーしみくぁいむるん(落ちてしまえばいいのに)」と思ったこともある。  年齢を重ねて諦念も強まるが、2017年、米軍ヘリの部品が宜野湾市の普天間第二小学校に落下し、緑が丘保育園でも部品が発見されたことには「まさに宮森小の悲劇に通じる。基地がある限り、また悲劇は起こる」と語る。  在日米軍基地の約7割が沖縄に集中する不条理が続く中、若者の無関心が気に掛かる。「若者が現状に目をつむっていくのではないか」と危機感を持つ。「沖縄が犠牲を強いられている現状に心を向け、『命どぅ宝』の社会を大事にしてほしい」と願っている。 (了) 【時事通信社】 〔写真説明〕宮森小での墜落事故について話す伊波則雄さん=2月22日、沖縄県読谷村
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