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大仁田厚、7回目の引退宣言「本当に最後!?」デスマッチに賭けた半生をプレイバック


“邪道プロレスを貫いてきた大仁田厚(59)選手が「20171031日、後楽園ホールで引退します」と宣言。と同時に、プロレス興行「さよなら大仁田 さよなら電流爆破 大仁田厚ファイナルツアー」を開催すると発表した。

 

ご存じの方も多いと思うが、大仁田厚の引退は7回目である。過去に6回プロレスラーを引退している。選手活動は実質40年ほどになるが、プロレスファンとしてみれば五輪の間隔で訪れるイベントという感じか!?(笑)

 

昨今のプロレス人気は、特に新日本プロレスを中心とした、華やかにショーアップされたファイトとバトルの妙味だ。ちょっとアメリカンスタイルに似た感じが過ぎるが、とはいえこれが日本の「王道」プロレス・格闘ファイトに通ずる。しかし、大仁田厚のプロレスは本人が言う通り「邪道」である。

 

正統派レスラーとして

大仁田は、1973年に全日本プロレスの新弟子第一号として入門し、ジャイアント馬場の下でプロレスのイロハを学んだ。アメリカへ武者修行に出て、NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王者にも輝き、日本に凱旋帰国。ジュニアだが、器用でもなくアクロバチックな動きもなかったが野性味溢れる闘志むき出しのファイトはファンを熱くさせた。そんな大仁田だったが、1984年に負った左膝蓋骨(膝のお皿)骨折のケガが致命傷となり、1985年に引退する。

 

その後、タレント活動などもしていたが、1988年にジャパン女子プロレスにコーチとして就任。同じくコーチをしていたレスラー、グラン浜田と対立し現役復帰する。

 

そして1989年、資金5万円でプロレス団体FMWを立ち上げる。当時は、地上波テレビ中継の契約がある全日本プロレス、新日本プロレスの2大団体が全盛で、FMWなど小規模のインディー団体はマニアのみの知名度といえた。

 

邪道レスラーとして

そんなインディーズの地位と注目度を上げたのがFMWの奇想天外なデスマッチである。

 

大仁田は、何かムチャクチャな試合でもやらなきゃ生き残れないと考え、ハデでガチでマジでヤバくてゲスいエンターテインメントを思いつく。それが「ノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチ」だ。リングを囲むロープの代わりに有刺鉄線を張り、そこに身体が乗るなどの負荷がかかれば、有刺鉄線に通っている電流が感知し、巻きつけられたいくつもの小型爆弾が爆発する仕組み。

 

【1990年8月4日東京・汐留 ノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチ】

 

1990年84日東京・汐留で行われた大仁田厚対ターザン後藤戦は、プロレス界だけでなく世間にもインパクト与え、その年の東スポ年間最高試合賞を受賞、大仁田はMVPにも選ばれた。

 

命と引換えの過激マッチ、魂がこもったファイトや、涙を流しながら団体愛とプロレス愛を叫ぶ姿、真っ直ぐで熱いパフォーマンスはファンの心に火をつけ、爆発的な人気を呼んだ。

 

興行は、小さな会場などは火薬が使えないので、ノーロープ有刺鉄線マッチやストリートファイトと称した反則アリアリのバトルなど、奇抜な試合を試行錯誤した。沢山の人に見てもらいたいとして、入場料金を極力安くして楽しんでもらうようにした。とにかく大盛況だった。

 

しかし、連日のようなデスマッチで体はボロボロだった。切れた額や腕などは、試合直後に医師が麻酔無しで縫うほど。痛みは麻痺していた。1994年には、体の傷を縫合した数1000針を超え、ギネス記録としてパーティーが開かれた。当時、大仁田をよく知る知人がいて、「皮膚も酷いが化膿止めを沢山飲むので内蔵も酷いんだ」と話していたのを思い出す。実際、生死の境を彷徨ったこともあった。

 

猪木が毒といった男

特に王道のプロレススタイルを歩んできた選手は危険なデスマッチに出たがらないものだが、大仁田の凄いところは、“電流爆破マッチで試合がしたい”とトップレスラーに直談判し、実現させたことだろう。

 

1994年5月、川崎球場で天龍源一郎と「ノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチ」を成功させる。これに感銘を受けた天龍は、その後度々FMWのデスマッチで対することとなる。

 

大仁田は、1998年にFMWを追放され、実質フリーとなって戦う場を新日本に求める。コレに対し、アントニオ猪木は大仁田をかなり毛嫌いしたという。といのも、「あいつは負けても死なない。勝った人間の上を行く毒を持っている」と社員に漏らしたそうだ。カリスマ的な人気があるので、試合に勝とうが負けようが結果的に主役の座をさらわれる。要するに全て大仁田に食われてしまうのがたまらなかったのだろう。しかし、グイグイと新日軍の前に姿を現しマスコミを巻き込めば、売られたケンカを買わないわけにも行かず参戦を了承する流れに。

 

1999年8月には、グレート・ムタ(武藤敬司)を模した大仁田のニタが対戦、「ノーロープ有刺鉄線バリケードマット時限装置付き電流地雷爆破ダブルヘルデスマッチ」を敢行。

 

更に、引退した長州力をついに引っ張り出し、2000年7月「ノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチ」を成功させる。

 

新日における18ヶ月に及ぶ一連の行動は「大仁田劇場」と呼ばれて人気を博した。自分の得意とするデスマッチにビッグネームを呼び込んでおいて、ほぼ負けるというのも大仁田の面白い所だが、きっと彼は勝ち負けじゃなく、王道レスラーをデスマッチに出せばファンが面白がるだろう、というただその一心だったのではなかろうか。

 

他にも、蝶野正洋、佐々木健介、曙、高山善廣、船木誠勝、長与千種、ダンプ松本、アジャ・コング、ジャガー横田、ボブ・サップといったビッグネームも、大仁田に引っ張り出される感じでデスマッチのリングに上っている。

 

ケガが完治するはずもない

念を押すが、大仁田は今日まで6回引退して復帰している。年も年だし、とっくに肉体の限界も来ているはず。それでも多い時は週に3回はリングに立って試合をしている。もちろんほぼデスマッチなので負傷箇所は減ることがない。

 

去年だけでも、8月に右尺骨骨折、11月に左かかと剥離骨折、12月に腰椎を骨折、右手には手術でチタンの板を入れる。今年2月、右腹部を裂傷、傷口は30センチに及びドクターストップがかかったが、縫合すると試合ができなくなるとして拒否。傷口をテープで止めて翌日試合を行った。約7カ月で4度骨折、縫った全身の傷はもう1500を超えているとか。

 

デスマッチの試合中に死ななくても、激闘の蓄積でいつ死んでもおかしくないと思う。大仁田に限らず、大仁田と共に戦う他のレスリーもしかりだ。

 

それでも邪道を突き進む

大仁田厚が日本のプロレス史に残した功績は多大だ。真剣勝負のプロレス、アクロバチックなプロレス、ショーとしてのプロレスなど、いろいろジャンルはあるが、ショーアップされたデスマッチという世界に類がないクレイジーなプロレスを確立させたのは間違いなくこの男だ。

 

ずいぶん昔、FMWが話題となり、大仁田がバラエティ番組に顔をだすようになった頃、番組の企画でアイドルの女の子に突撃インタビューさせたことがある。その中で「大仁田さんのやっていることはプロレスじゃなくて殺し合いじゃないんですか?」というパンチの効いた質問をさせた。もしかしたら怒り狂うんじゃないか? とも思った。

 

すると大仁田はその女の子に「おまえ、何言ってるんだよ?! ちょっとここ座れよ」と傍のガードレールに座らせ、並んで話を始めた。決して怒るでもなく、穏やかでにこやかに、切々と自分がやっているプロレスの意義を数分語ったのだ。そして最後には、「わかってくれてありがとう」と言って去って行った。

 

彼のレスラーとしての生き様に対する評価は昔から賛否ある。ここまで紹介したように、ファンが共感し喜ぶ声もあれば、やり方が強引で単なるエゴイストだ、あれはプロレスじゃない、といった意見などさまざま。でも本人は、自分がやりたいと思うことの信念を貫いているだけで外野の声は気にしないのだろう。その姿勢は、あのインタビューの頃からもずっと変わっていない。それはなかなかできることではない。

 

これが最後という7回目の引退発表の席で、「2度とリングでファイトするつもりはない。帰ってきません」と完全引退を明言した。

 

が、その数日前、戦友でもある高山善廣選手が試合中の事故で頚椎損傷などの大けがを負った件に対し、Twitterで「早い回復を祈るばかり。また電流のリングで戦いたい」とつぶやいている。すぐには復帰できないことくらいわかるはずだが(笑)、果たしてどっちが本当なのか? 例えば高山選手の復帰に感化され、リングに戻ってくるという可能性はゼロとは言い切れない。

 

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