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悪意に対する感度が麻痺している話(僕秩はてな)



今回はヨシナガさんのブログ『僕秩はてな』からご寄稿いただきました。


悪意に対する感度が麻痺している話(僕秩はてな)



先日の「AppleWatchをなくした*1」話。


*1:「落としたAppleWatchを目の前で逃した話」2018年07月21日 『僕秩はてな』

http://bok.hatenablog.com/entry/2018/07/21/204957


珍しい事件だったので面白いと思って書いたのだが、読者の方からの反応を見てビックリした。


 

読者コメント 


・いや返せよ泥棒ども


・遺失物横領なので警察に被害届だした方がいい


・3人が帰るのを示し合わせてたのなら共犯、仲など気にせず暴けばいい


・落としたAppleWatchを目の前で盗まれた話だった…これはひどい…


・うわ、腹立たしい…


・盗まれた可能性大有りなのに前向き~


かなり強い怒りのコメントが多かったのだ。


あれを読んだ親からも「残念だったね。けれど悪い人にはきっと罰が当たるよ」というLINEがきた。


皆がそろって同じようなコメントをくれるということは、ここは本来 怒っていいところだし、悲しむべき状況だったのだろう。


だが、当の僕はなんともなかった。


怒ってもいないし悲しんでもいない。「珍しい」とブログのネタにしただけ。


盗られたのは確かに残念だが、AppleWatchは遺品や日記のように「取り返しの付かないほど重要なもの」ではないし、そもそも発端は置き忘れた僕の過失だ。


そして、盗った側にもいろいろと事情があるだろう。あの場で言い出せなかった気持ちもわかるし、もしすごく貧しい人だったら売ることで生活が多少楽になったりするかもしれない。


そう話すと、「ヨシナガ、お前ちょっとおかしいんじゃないのか?」と言われた。


そう、どうやら僕は「他人からの悪意に対する感度」が麻痺しているようなのだ。


いつからそうなったのか、考えてみると思い当たるフシが一つだけあった。それは、「過去にブログが大当たりした」ということである。


僕は22~23歳位でブログが大当たり*2して本になったりテレビに出たりと、チヤホヤされるようになった。それだけ聞くと良いことのように聞こえるがそうではない。すべての物事には両面がある。


*2:「ヨシナガ(吉永龍樹@dfnt)これまでのお仕事経歴まとめ#2003年23歳僕秩のヒット受賞」2018年02月24日 『僕秩はてな』

http://bok.hatenablog.com/entry/about_dfnt#2003%E5%B9%B423%E6%AD%B3%E5%83%95%E7%A7%A9%E3%81%AE%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%88%E5%8F%97%E8%B3%9E


輝かしい人気や数字を集めている裏では、


・2ちゃんねるに住所を書かれる


・殺害予告など(多数)


・トークライブに事件を起こしそうな人が来る(イベント中突然ヨシナガと叫び舞台に上がろうとした男性が来た→会場スタッフが警察引き渡し)


・炎上時、個人に集中する100万人単位の悪意



のような色々なことがあった。 個人サイトだったので世の中の闇の縮図のようなものを2002年からずっと個人で受け続けてきたのだ。


今でこそネットも完全普及したので警察も対応してくれるようになったが、16年前はサイバー犯罪の概念もほとんど浸透していなかったので、本当に為す術がなかった。

ツイッターの普及で、炎上時に芸能人に殺到するコメントは可視化され、誰にでも「ヤバさ」が想像しやすくなったが、当時はそんなものはなかったし、相談する相手もいなかった。


初めて見る強大な理不尽、理解不能な悪意。これが人間の本性なのか?

想像を絶する、普通の人生では一生経験もしないようなものをたくさん見た。炎上がYahoo!のトップに出ている時などは「人によっては、炎上で死ぬ人もいるんじゃないか?」そう思えるほどの強い圧だった。


だが、それらは得ているモノとの等価交換なのだろう。僕は幸運にもその中を生き延びることができた。おそらく、その中で悪意に関するセンサーが壊れたのだと思う。


先程の「悪い人にはきっと罰が当たるよ」というセリフ。


自分の身に不幸が降り掛かった時、そう考えるのは簡単だ。世界各国の宗教でもそう教えている。手軽に怒りを発散して安心できるからだろう。


ただ、世の中はそれほど単純ではなかった。


果てしない悪意を持つ悪人が悪の力で登りつめ、成功していくのも見た。そもそも悪という概念自体が相対的なものだ。他人を殺して登りつめたとしても、勝てばそれが正義に置き換わったりするのを見た。


世の中は果てしなく残酷で、果てしなく複雑だった。


なら、その中で戦うしかない。戦い抜くには強い力だけではダメで、平常心や自分を信じる心、そして仲間や環境が絶対に必要だった。


僕は基本的に好戦的な遺伝子を持っているので、戦う時は徹底的に戦う。自分がある程度勝負強いのも知っている。特に普通の人が緊張する本番にめちゃくちゃ強いのだ。恐ろしい悪意の中を折れずに走ってきたことも自信につながっているのかもしれない。


だが、本気で戦うことは自分がわずかでも悪に踏み込む可能性も孕むし、やりすぎると周囲との人間関係にも影響するだろう。相手を打ちのめすことも相手から見れば「悪」だし、自分が負けてボロボロになることだってある。


だから時と場所を選ばなくてはいけない。めったな事では怒りや戦闘のモードに切り替えてはいけない。その力は本当に自分の人生を左右しうる、重要な時に限って使うべきだ。


そう思って生きる中で僕は、冒頭の「完全に感覚が麻痺した」状態になったのだと思う。


この流れを理解していただくと、「AppleWatchを他人に拾われたこと」には理不尽さも悪意もほとんど感じないようになった状況が、少しは分かっていただけるのではないだろうか?



 そして


悪意に対する感度が麻痺した後も人生は続く。

その後も「もの作り」を続けると、人はどこかで選択を迫られることになる。


・さらなる人気を手にし、さらに強大な悪意を受けるか?


・人気をここまでに限定し、今の悪意で食い止めるか?


・リタイアし、自分に対する悪意を消滅させるか?


世界に存在する悪意から解き放たれる方法はあるのか?そもそも、強大な人気を手にする必要はあったのか?


僕が15年考えてきた中でたどり着いた想いに関しては、またいつかブログに記してみたいと思う。


執筆: この記事はヨシナガさんのブログ『僕秩はてな』からご寄稿いただきました。


寄稿いただいた記事は2018年08月16日時点のものです。


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