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「江戸時代の経済学」インフレの原因?貨幣と別に藩が独自に刷っていた藩札とは


江戸時代には小判や寛永通宝などといった様々な硬貨が発行されましたが、幕末の一時期を除き紙幣が発行されることはありませんでした。

しかしそれだけでは不都合をきたすようになり、一部の藩は幕府の許可を得て藩札を発行したのです。

果たして藩札とは何なのでしょうか?

本記事ではどうして各藩で藩札が刷られるようになったのか、またそれによって江戸時代の経済にどのような影響があったのかについて紹介します。

なおこの研究は、金融研究 第8巻第1号に詳細が書かれています。

目次

  • 慢性的な貨幣不足に陥っていた江戸時代
  • 江戸幕府も扱いに困った藩札
  • 産業振興には役に立った藩札

慢性的な貨幣不足に陥っていた江戸時代

慶長小判、江戸幕府初期を代表する硬貨として知られている
credit:wikipedia

江戸時代において、幕府は1601年の「金銀の制」と1636年の「銭定の高札」により、金・銀・銭の3貨(正貨)の鋳造権を独占しました。

しかし慢性的な通貨不足であり、日本全国で不都合をきたすようになったのです。

このため、諸藩は自領内の通貨不足を解消するため、幕府の許可を得て藩札を発行する動きを始めました

また一部の遠隔地の藩では許可を得ずに独自に発行するケースも見られました。

こうして江戸幕府成立後数十年で、貨幣制度は多様化し、地域ごとに異なる通貨が存在する時代となったのです。

江戸幕府も扱いに困った藩札

福山藩が発行した藩札、福山藩内でのみ使用可能だった。
credit:wikipedia

そもそも藩札とは何でしょうか?

藩札は江戸時代における特有の通貨で、各藩政府が発行し、領内での通用を保証した紙幣です。

ただ、当時は大名の領地や支配機構について「藩」という名称は使われておらず、当然「藩札」という名称は使われていませんでした。

当時の人は藩札に当たるものを金札、銀札、銭札、米札など、額面表示方法によって呼んでいました。

また、紙幣の原料が楮であるため、楮幣や領分札、お國札、フダなどの名前も使われていたようです。

この藩札とは似て非なるものに、私札と呼ばれるものも存在しました。

私札は完全に私人によって発行され、一種の約束手形や自己宛小切手として機能していたものです

一方、藩札は最初こそ正貨の準備を持つ信用貨幣でしたが、藩の財政が窮乏するにつれ、政府の高権威のみに依存する政府貨幣へと変わりました。

その結果、健全な流通を続けた私札に対し、藩札は混乱を招き続ける貨幣となりました。

藩札の始まりは通説では1661年に発行された越前国福井藩札とされていますが、近年の研究により、福山藩札が1630年に発行された可能性も示唆されています。

これには福山藩の銀札を領内で使用するように広島藩に指示する書類と、福山藩の銀札の広島藩内での使用を禁止する触書が見つかったことが根拠です。

ただし、一部の研究者は福山藩が私札に対して通用規則を示すだけであり、藩札の始まりとはみなさない見解もあります。

江戸時代における藩札の発行に対する幕府の姿勢は変遷がありました。

当初、藩札の発行は少額であり、正貨不足を補完する役割もあったため、幕府は形式的な許可や黙認の姿勢をとっていたのです。

また、藩札は藩内限定の通貨であったことから、特に問題視されませんでした。

しかし、藩札は銀などに裏打ちされておらず、各藩の懐事情をもとに信用創造された通貨だったのです。

なので大量に発行したことにより、価値が暴落し物価の上昇が問題となったのです。

これと似たようなことは現代でも起こっており、ジンバブエがその代表です。

ジンバブエでは政府の要求するままに中央銀行がジンバブエ・ドルを刷りまくった結果、通貨の価値が暴落し、ハイパーインフレが起こりました。

そして2009年には公務員の給料をアメリカ・ドルで支払うようになり、2015年にはジンバブエ・ドルは廃止されたのです。

このようなインフレに対応するため、1707年に幕府は藩札の発行と使用を全面的に禁止しました。

しかし藩の用意してある銀はとても全ての藩札と交換できる量ではなく、正貨への引替えに苦しみ、完全な引替えは実現しなかったのです。

 

その後、幕府はインフレを解消するために通貨圧縮政策を実施しました。

具体的には貨幣に含まれている金と銀の比率を変更して金を多くするというものであり、それにより貨幣への信頼を取り戻そうとしたのです。

しかし当時は佐渡金山の金脈が枯渇するなど貴金属の産出量が減少しており、金銀の比率の変更を行ったことになり貨幣の発行できる量は大きく減りました。

それにより今度は日本全国で深刻なデフレになり、藩財政の更なる窮乏化が発生したのです。

 

このため、1730年に藩札禁止令が解除され、多くの藩が藩札の発行を再開し、増発に踏み切りました。

このようにして、江戸時代中には幕府の濫発警告や抑制を伴いつつも、藩札を持つ通貨体制が持続し、幕末・維新時代まで続いたのです。

産業振興には役に立った藩札

藩札には、その弊害がしばしば強調され問題視される一方、幕藩体制の時代背景を考慮すれば、その存在はやむを得なかった一面もあります。

また藩札は産業発展にも影響を与え、特に専売制との関係が強調されました

典型的な専売制下の藩札発行、藩札を特産物の買い上げ資金として使っていた

1720年代以降、専売制と藩札の結びつきが明確化し、藩札の機能を高めました。

専売制が実施される場合、藩の「産物会所」が生産・販売面の管理をし、「藩札会所」が紙幣の管理を行い、連携して運営されたのです。

藩札の発行によって領内産物を買い上げ、中央市場で売却し、得た正貨で藩札の準備資金を充実させる方法が一般的でした。

しかし、この方式では既に領内で生産されている物資の買上げに充てられ、生産資金不足の際には買上物資が減少します。

それにより物価上昇を招き、領民は苦しむこととなりました。

一方、藩札が生産運転資金の供給を目的として発行された場合、効果が大きかった事例もありました。

成功した専売制下の藩札発行、藩札を産業振興のための資金として使った

例えば福井藩は生産振興政策として藩札を発行し、領内の生産者に低利で融資したのです。

この政策により、領内産業が発展し、藩の財政が改善しました。

福井藩の成功事例から、藩札が領内産業振興に資本として用いられる場合、その経済効果が大きいことが示されたのです。

一般的に、藩札の濫発は正貨との引き換えが難しく、破綻を招くことが多かった一方で、領内産業振興に資本として藩札を用いる場合は、正貨の増加を伴い、藩札が健全な通貨として機能したと言えます。

ただし、後者の好例は限られており、福井藩以外では高松藩や宇和島藩などで見られました。

藩札の運用方法によって、経済効果に大きな差異が生じたことが示唆されます。

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参考文献

金融研究 第8巻第1号 要約 藩札の果たした役割と問題点 (boj.or.jp) https://www.imes.boj.or.jp/research/abstracts/japanese/kk8-1-5.html
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