今年は終戦、そして被爆から75年という節目の年です。

原爆の投下は広島が1945年8月6日、長崎が8月9日。毎年それぞれの原爆忌には慰霊と平和祈念のための式典が催されます。日本は唯一の被爆国として、世界の平和と非核化について取り組む責務があることを、改めて考えさせられます。

長崎原爆忌の今日、原子爆弾が作られた歴史的経緯と、日本に2度に渡って原爆が投下された背景を振り返ってみましょう。


戦争の足音と、科学技術の進化の先に生まれたもの

広島と長崎に投下された原爆は、それぞれ構造が全く違うものだったことをご存知でしょうか。広島型の爆弾は細長く、長崎型はずんぐりとした丸いかたち。アメリカ軍が「リトルボーイ」と呼んでいた広島型はウランを用いたもので、長崎型の「ファットマン」はプルトニウムを使用していました。

アメリカは、なぜ2種類の原爆を同時に開発していたのでしょうか。すべては1938年にウランの核分裂現象が発見されことに起因します。当時は第二次世界大戦を目前にした時代で、各国で新兵器の開発が進められていました。残念なことに、核分裂の発見は大量破壊兵器としての原爆構想へとつながっていったのです。

1942年、アメリカは国家を挙げて原爆開発を目的とする「マンハッタン計画」に着手します。その間に新たにプルトニウムによる核分裂にも成功し、原爆の研究が進むうちにウランよりもプルトニウムによる開発が優先されるようになりました。その理由は、ウラン型原爆に必要な「ウラン235」は自然界にはごく微量しか存在せず、プルトニウムは核分裂を持続させる原子炉があれば人工的につくることが可能なためです。1945年7月までに、アメリカはプルトニウム型2個とウラン型1個の計3個の原爆を完成させることになるのです。


なぜ長崎に原爆が投下されたのか

プルトニウム型爆弾は起爆の構造が複雑なため、事前に実験する必要がありました。1945年7月16日、世界初となる核実験「トリニティ実験」がニューメキシコ州の砂漠で行われます。日本への原爆投下のわずか3週間前のことでした。

7月26日、アメリカ・イギリス・中国の三国首脳名で日本に無条件降伏を勧告する「ポツダム宣言」の文書が提出されます。このなかで原爆については触れられていませんでした。当時の日本政府は受諾の姿勢は見せず、結果的に原爆の投下は現実のものとなったのです。

アメリカが保有していた原爆は、プルトニウム型とウラン型が各1個ずつ。広島へのウラン型原爆投下3日後の8月9日。当初の第一目標だった福岡県小倉市(現北九州市)の視界が不良だったため、プルトニウム型原爆を搭載した爆撃機は長崎市へ向かうことになります。この原爆投下で、その年の年末までに広島では約14万人、長崎では7万4千人近くが亡くなったといわれています。

日本は2度の原爆投下という甚大な犠牲を払って、1945年8月14日に「ポツダム宣言」を受諾して降伏、翌15日の「玉音放送」をもって終戦を迎えることになるのです。3年8か月にわたる太平洋戦争は、こうして終結しました。


命と平和を守るために、一人ひとりが考え続ける

原爆を投下する基準のひとつとなったのは、一定規模以上の都市であることでした。アメリカは、開発した原爆の破壊力が実証できる都市を選んだとも考えられるのです。そのなかには横浜、川崎、名古屋、京都、大阪、神戸といった大都市も含まれていましたが、その時までに空襲によって破壊された都市を除外し、最終的に決定したのが広島、小倉、長崎、新潟の4都市でした。

原爆の投下を正当化する理由として、日本の降伏を早めることで戦争の終結をもたらし世界平和に貢献したという論説があります。しかし、そこに種類の異なる原爆を2度に渡って投下する理由は見当たりません。長崎に原爆を用いたことは、アメリカでも議論の対象になっているそうです。

広島と長崎への原爆投下では、一般市民が犠牲になりました。なぜ、日本はこれほど悲惨な犠牲を払うことになったのでしょうか。投下に至った背景や原爆の被害を知り、命と平和を守るために、私たち一人ひとりが戦後の日米関係や核抑止論、核なき世界の実現について考えていくことを大切にしたいですね。



参考サイト

朝日新聞デジタル 知る原爆・知る沖縄戦

朝日新聞デジタル 初核実験75年

東洋経済オンライン「京都や横浜も原爆投下の有力候補地だった」

情報提供元: tenki.jpサプリ
記事名:「 悲劇を繰り返さないために大切なことは?8月9日は長崎原爆忌です